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ヤマシタパールの歴史

終戦から18年。貧しさの中、初代 山下良一が山下真珠を創業

(写真:中央が創業者の山下良一。抱えられている赤ちゃんが3代目の山下太)

焼け野原となった終戦から18年後の1963年。日本は国を挙げて戦後復興に邁進している時代でした。

当時の平浦地区は、宇和島市内まで行くのに、徒歩で山を抜けるか船でしか移動できない辺ぴな半島でした。そのため村人は、漁師をするか山を段々畑にして野菜を作るかの、とても貧しい村だったそうです。「平浦の娘をめとるのはいいが(よく働くので)、嫁には出すな!」と言われるほどに…。

さらに、初代の山下良一は分家の身だったため、余計に貧しくワラを掴む思いで真珠業界に飛び込んだのではないかと思います。

こうした状況の中、初代は先ずあこや貝(母貝)を育てて売ることから始め、その売上と借入を元手に、三重県の技術者を呼び寄せ、真珠養殖の基盤を作り上げていきました。

 


天国と地獄。激動の時代を乗り越えた2代目、山下隆教

2代目の山下隆教は、高校卒業後、一度愛知県のトヨタ自動車へ就職します。そこで都会の文化や厳しさなどを体感した後、22歳で愛するふるさとへ戻ります。そして、父である初代の下、真珠作りへの道を歩き始めました。

当時の真珠業界は、高度経済成長やバブル景気、真珠の流行などの追い風を受け、1990年頃まで大いに発展します。ところがその後バブルが崩壊し、1993年頃にはあこや貝の大量へい死が起き、真珠業界の発展は止まります。そして、追い討ちをかけるように2008年にリーマンショックが起こり、真珠業界は壊滅的な影響を受けました。

こうした激動の時代の中でもYamashita-Pearlが存続できたのは、2代目の隆教が堅実な経営を貫き、そして良質な真珠を作る技術に磨きをかけ続けていたからに他なりません。


 


デザインと彫金を武器に、世界に羽ばたく3代目、山下太

長らく続く真珠業界の低迷と先行き不透明な時代。先代からも「やりたい事が他にあるなら、そちらをやりなさい。」と言われ、高校卒業後、デザインを学びに大阪へ発ちます。専門学校とアトリエで、デザインの勉強と彫金の基礎を身につけ、1996年に帰省。父である隆教の下で、真珠作りの修行を始めます。

そして、養殖を基盤にしつつ、学んできたデザインと彫金を武器に、オリジナルジュエリーを作るようになります。第1回宇和島パールデザインコンテストでは、1次審査通過(作品名「バックルキング」)。その後、第3回では部門賞を受賞するに至ります(作品名「たこリング」)。

さらに、未来を見据え、手探りながら海外展開を開始。2014年にフィンランドの真珠販売業者 Kuunpisara と取引を開始したのを皮切りに、2017年には「JapanExpo in Thailand」、2018年には「バンコク日本博2018」「台湾建国玉市」に出展。海外の展示会では行列ができるなど、手応えを感じています。

2019年、地元平浦にて新店舗オープン。同時にネットショップをリニューアルし、更なる発展を目指しています。